2023.05.09
二代目にならなかった物語
投稿:2021/11/16更新:2023/5/9 目次 #1 建具屋に生まれた子供 #2 ”たてぐや”になりたかった子供 #3 建具屋なんか継ぎたくない #4 体から消えた木の匂い #5 「ここ持ってろ」から「これやっとけ」に。 #6 建具屋、継がない。 #7 建具屋、廃業。 #8 建具屋廃業から四半世紀 #9 継げるものがあることが羨ましい #1 建具屋に生まれた子供 「建具」って知ってます?「たてぐ」と読みます。 扉や窓などのことです。 現在はアルミ建具が主流ですが、日本の家屋は伝統的に木製建具が使われてきました。障子(しょうじ)や襖(ふすま)が代表的ですね。 明治以降はガラスをはめ込んだ木製建具も作られるようになり、田舎の木造民家では現在も木製建具を見かけます。 上の写真のような感じです。 古くから現在に至るまで、日本の家屋に使われてきた木製建具。 日本の木造建築を受け継ぐ伝統技術がユネスコ無形文化遺産に登録され、その中には建具製作も含まれています。 日本の伝統技術ですね。 さて私、牧野は、その日本の伝統技術を受け継ぐ小さな建具店の三人兄弟の末っ子として生まれました。 父が木工職人の修行を経て、独立して始めた店でした。 工場(こうば)の中に自宅があるのか自宅の中に工場があるのかわからないくらいの小さな建具店。 その場所は、現在は取り壊されて駐車場になっているのですが、「こんな狭い土地だったのか!」と驚かされます。 通いの職人さんが1人、住み込みの職人さんが2人、そして父を加えた4人の職人で営んでいました。 住み込みの職人さんがいたので朝昼晩の三食は職人さんと一緒。 お風呂も家族と職人さんが交代で入りました。 人数が多いので次々に入らないと最後の人が夜遅くなってしまうのでテレビ番組のいいところでも前の人が出たらすぐに入らないと父に怒鳴られましたね。 大人ひとり入るのがやっとくらいのお風呂場でしたが、なんと檜風呂! 建具の木工所ですから、木材の端切れが山ほどあったので、お風呂は薪で沸かしていました。薪で沸かす檜風呂、贅沢でしたね。 当然、お風呂沸かすのは子供の仕事。上手いもんでしたよ。 中学生くらいになると、端材をお風呂の薪として最適な長さに電ノコで切りそろえて準備する、なんてことも日曜日のお手伝いでした。 #2 ”たてぐや”になりたかった子供 建具屋の家に生まれた私。工場(こうば)と住居が一体でしたから雨の日の遊び場は工場でした。 端切れを集めて遊んだりカンナ屑の山に寝転がったり職人さんの仕事を眺めたり。 職人さんがノミやカンナの刃を研ぐのを覗き込んだりもしていました。 砥石は真ん中だけではなく幅いっぱいにまんべんなく使って均一にすり減るように使わなきゃダメとか教えてもらいましたね。 研いでは研いでは使い続け、新品と比べてとんでもなく短くなったノミやカンナの刃。元の厚さの1/4ぐらいにまで削れて薄くなった砥石。 そんなのを見ながら道具の大切さを知ったんでしょうね。 いまでも道具にこだわるのはそのせいでしょうか。 父にくっついて現場にもよく行ってました。 建具を入れる場所の寸法を測ってノートに鉛筆で記入するのを不思議そうに見てました。どうしてこれだけの記号であれだけの建具が出来上がるんだろう?って不思議だったんです。 もちろん、長さの単位は寸と尺。 父は鉛筆をノミで削ってました。その鉛筆を耳にヒョイと挟む。それ見て「かっこいいなぁ」って。 だから家に帰ると、自分もマネしてました。 出来上がった建具の納品にもついていきました。 現場で建具を入れてみるとちょっと合わなかったり、ピタッと閉まらなかったり。 父はそれをその場でチョイチョイっとなおしてしまいました。 建具がピッタリ閉まらないぐらいのことなら、父の仕事を見てたのでいまでもチョイチョイと自分でなおしたりしますよ。 工場の職人さんや父の仕事をみながら育った私。 保育園の卒園アルバムでおおきくなったらなにになりたい?の問いにまこと少年は「たてぐや」と書いてました。 アルバムを見た父がニヤニヤしてたのを覚えてます。 #3 建具屋なんか継ぎたくない 保育園の卒園アルバムに おおきくなったら”たてぐや”になる と書いた少年は、小学生になっても父について現場に行ったり工場で職人さんの仕事を眺めたり手伝ったり、なんてことをちょくちょくしていました。 小学校に入った時点で歳の離れた兄たちは中学生私が小学校の高学年になるころには兄たちは高校生でした。 「建具屋なんて継ぎたくない」「家の手伝いをしていて、この仕事、 自分には向かんと思った」なんて話が兄たちから出てきます。 まだ小学生の自分は「なんでだろ?」なんて思っていたのですが、兄たちの話を何度か聴いているうちに自分も大人ぶって「たてぐやなんか継ぎたくない」なんてこと言うようになったと思います。 けど、建具屋がキライだったわけじゃないんです。 ただ、兄たちを真似て大人ぶってただけだったんだと思います。 父や職人さんの仕事の手伝いは、わりと好きなほうでした。 ただ、おがくずまみれになってしまう電ノコを使う作業はイヤでしたが。夏は特に。 #4 体から消えた木の匂い 家の中に工場(こうば)があるのか工場(こうば)の中に家があるのかわからないくらいの小さな建具屋。 小学校に入る前に工場を増築したので工場(こうば)の中に家があったと言うのが適切かもしれません。 工場(こうば)では、毎日、木製の建具を作っています。出来上がったばかりの木製建具はとてもいい香りがします。 新築の和室の畳と木の混ざった香りもいいですよね。 工場(こうば)には、納品前のできたての建具だけでなく木くずに、カンナ屑、おが屑など木にまつわる、いわゆるゴミがいっぱい出ます。 家ではその木のゴミでお風呂も沸かします。 とにかく家中、木なんです。 高校2年のとき、工場兼自宅からは離れたところに新しく家を建てました。 予鈴が鳴ってから自転車で走っても遅刻しないぐらい学校の近くに。 工場と家が離れたことで、おがくずの埃っぽさはなくなるし、騒音はしないし。「いいな」と思うことが多かった。 でもあるとき、友達に言われたんです。 「牧野、木の匂いがしなくなったな」 このとき、生まれてはじめて気づきました。 生まれたときからずっと木の香りの中で暮らしていたんだと。 そして、木の香りが自分の体に染み付いているってことも。 #5 「ここ持ってろ」から「これやっとけ」に。 家の中に工場(こうば)があるのか工場(こうば)の中に家があるのかわからないくらいの小さな建具屋。 小学校ぐらいまでは、「ここ押さえてろ」とか「ここ持ってろ」といった単純な手伝いばかりでした。 それが中学校ぐらいになると工程をまるっと任されるようになってきます。 例えば、フラッシュ戸。洋室の出入り口のドアなどは、木枠に合板を接着させて作ります。 接着剤が乾いたら、木枠からはみ出した合板の切り取りやガラスを入れる窓部分のくり抜き、その後の仕上げのコバの貼り付けなど、工程をまるっと任されるようになってきました。 あと、増えたのがアルミサッシ。 風雨にさらされる建物の外周の建具は年々、木製建具ではなくアルミサッシに置き換わっていきました。 木製建具の注文は職人さんに任せ、増え続けるアルミサッシの注文には父が対応するようになっていたのが子供でもわかります。 父のアルミサッシを組み立てる作業を手伝っているうちにだんだんと覚え高校生になると、一人で組み立てられるようになってきました。 父がガラスをカットしておいてくれてどの型番をいくつ、という指示を見ながら倉庫から型番通りのキットを運び出し、部品を箱から出して組み立てていきます。 ガラスの縁にゴムを巻いてアルミの窓枠にセットしてドリルでネジ止めして。 網戸は任せてもらえませんでした。今でも自宅の網戸の張替えなら自分でやっちゃいますが、シワが寄ったりするんですよ。 お客さんのお宅に納める網戸にシワが寄ってたらいけませんよね。 #6 建具屋、継がない。 小学校へ上る前は、「たてぐやになる」と言っていた少年も高校生になると進路を考える時期がやってきました。 父から店を継いでほしいとは兄弟3人とも言われたことはなく、すでに、一番上の兄は東京へ出て会社勤めをしていました。すぐ上の兄は実家にとどまり建築士として名古屋の設計事務所に勤めていました。 兄たちと同様、父からは、「大学へは行かせてやる」と言われていましたので、どこを受験するか。 理系の進学に強い県立高校だったのですが、数学は1年生の1学期でつまづき、高校で学ぶ数学のことはまったく覚えていません。卒業できたのが今でも不思議。 なので当然、選択肢は文系。 ある日、すぐ上の兄が私の部屋へ入ってきて、「大学で経営を学んでこないか?」と聞きました。 将来独立して自分の設計事務所を開く夢を持っていた兄は、その事務所と家業の建具屋の経営をまとめて私がみてはどうか、というのです。 ものづくりは職人さんたちに任せて経営だけをみればいい。このまま父一代で終わらせるのはもったいない、ということでした。 私の答えは、 「やだ」 高校3年生当時の私にとって、経済学部とか経営学部って一番興味のない学部だったんです。 それに、木製建具の注文が減る一方でその分をアルミサッシが埋め合わせており、この状況は進むだろうな、と感じていました。アルミサッシって、ずっと手伝っていて、魅力がなかったんです。 だから大学は自分で選びました。そのとき思い描いていた将来のために。 この時点で、兄弟の中から建具屋の後継者が出ないことが確定しました。 #7 建具屋、廃業。 高校三年のとき、進路のことで、父からではなく兄から継がないか問われ「やだ」と答えた私。 大学からは親元を離れ一人暮らし。なかなか家には帰らなくなりました。だって、怖くて厳しい父親はいないし、口うるさい母親もいない。羽を伸ばしちゃいますよね。 大学卒業後、東京で就職してしまうともうほとんど帰ってません。 お盆休みのような決まった休みの制度が会社にはないのをいいことに、お盆は「仕事で帰れない」などと理由をつけてほとんど帰りませんでした。 そのくせ9日間の夏季休暇をとってバイクでツーリングに行ってましたからとんでもない親不孝者です。 正月だけは帰ってましたが。 社会人になって4年ぐらい経ったころ、客先のプロジェクトルームへ出勤すると突然会社の総務から出先へ連絡があり、「すぐにご実家に連絡してください」とのこと。 実家へ電話してみると、叔父さんが出て父がもうすでに冷たくなっていると告げられました。 本当に突然のことでした。前の晩、父に電話しようと思っていたのに電話できなかったことを後悔しました。 火葬場の関係で告別式まで日が空いていてその間ずっと父の側にいたのですが毎晩の弔問がありました。父の仕事関係の仲間の人たちです。 みなさん、父の顔をみて涙を流しているんです。 死んだら涙を流してくれる仲間がいる。 父が誇らしかったし羨ましかったです。 私も小さい頃から知っている人たち。でも、高校あたりからほとんどお会いしていません。 私が末の息子だとわかると、みなさん、言うんです。 継がないか と。 お父さんがこれだけの店にしたのに終わらせるのはもったいない。仕事のことはオジサンたちが教えてやるから。 そうこうしているうちに告別式。 葬儀屋さんが「これだけの規模のご商売でしたら200〜300人でしょう」と予想した参列者の数を上回る500人の方々が父を見送りに来てくださいました。 こんな時になって初めて父の偉大さを知らされるとは。 告別式、初七日を終えて、店をどうするかを話し合い。 というより、母は店をたたむことを決めていました。収入の不安定な自営業は、これを機にもう終わらせたいと願っていました。息子たちが安定して給料をもらえる会社員でいてほしいと願っていました。 それまで店を継ぐなんてことを考えていなかった私。だから店を継ぐということがどういうことなのかわからなかったし、何から始めればいいのか、何をすればいいのか想像もつかない。 まして、頼りの父はもういない。 当時の仕事の方はというと、システムエンジニアとして一人前と認められつつあり、当時の先端分野をやらせてもらっていてこれから、というところ。 木製建具からアルミサッシへの移り変わりはさらに進んでいて、職人さんもその頃は一人だけ。商売の勢いは見えている。 なんだかんだ考えても怖くて継げなかったんだと思います。 いろんなことが怖くて。 ただ、父が築いたものをなくしてしまうこと店の名前が消えてしまうことには罪悪感のようなものを感じていました。 #8 建具屋廃業から四半世紀 高校卒業後の進路を決めるとき、そして、父が急死したとき。 二度あった家業を継ぐ機会を見送り、店をたたむことに。 父の築いたものを失くしてしまったこと店の名前が消えてしまうことに罪悪感のようなものを感じました。 父の死から四半世紀。中小企業診断士の資格を取り独立しました。 父と同じく自営業です。母が生きていれば反対したでしょう。 独立に際して、かつての父の店の屋号だけでも復活できないかと、自分の事務所名にすることも考えました。 しかしながら、中小企業診断士の事務所の名前が建具屋の店名では、混乱を招くし自分が商売上も苦労するだろうと諦めました。 やっぱり屋号さえも残せない… 独立してしばらくしたころ、沖縄の離島にある木工所を紹介され中小機構のアドバイザーとして訪問しました。 訪問時は社名から、木製の小物を作っている会社という認識でした。製造方法も機械で量産しているのではと思っていました。 ところが。 工場をのぞかせていただくと、子供の頃の記憶がブワーっと蘇ってきました。 まず、工場の中へ入った時の匂い。子供のころ遊び回った自宅兼工場のあの匂いとまったく同じだったんです。 そして並んでいる機械。家にあった機械とほとんど同じ。違うのは電子制御になっていることぐらい。 仕掛中や出来上がった製品を立て掛けてある景色も同じ。 この会社では、家具が中心だけれども建具もやるんだそうです。 ただ一点、違うところは、アルミサッシがないこと。 木工だけで経営されているんです。 「できるんだ・・・」 四半世紀前に、私が 「もう無理だろ」 と思っていた木工で、現在もしっかりとした業績をあげてらっしゃるんです。 #9 継げるものがあることが羨ましい 中小企業診断士として独立後、中小機構のアドバイザーとして訪問した離島の木工所。工場に入ると、子供の頃に見た景色、包まれていた匂いがありました。 社長さんとその後何度もお会いし、お酒も一緒に飲んでお話を伺ってわかってきたことがありました。 この社長さんも二代目。音響関係の仕事をしていたけど別の木工所で修行した後にお父さんのあとを継いだそうです。 そして、継いでから会社の業績を拡大し、技術力を評価されるようになってきたことも。 私にはできなかったことをこの社長さんは全部やってきた。 アルミサッシに駆逐されるのではと足を踏み入れることさえしなかった私。 当時の私にはそんな知識も知恵もなかったし、勇気もなかった。 中小企業診断士となった今なら、父の店を生き残らせる道はあったと確信できます。だってその実例が目の前にある。 ただ、これから始めるにはあまりにも遅すぎる。 継ぐべきだったはずのものがもう跡形もなくなってるんです。 今の自分にできることといえば継ごうとしている人、継いだ人の伴走をすること。 継げるものがあることが私にとっては羨ましいんです。 継いだ人、継ぐ人、みんな集まって話しませんか?